GQ 24年9月号 コン・ユ

 

親指を見たかったのですが、ここでは見えませんね。

僕の親指?なんで?(親指を出して見せる)。

最近は釣りに行ってないみたいですね。

釣りに行ってないんです。あっ、釣りに行ってたら焼けてるから?ハハハハハ。

釣りの手袋をすると親指だけ出るっていうから、それで見てみたかったんです。

そうなんです、今は栄光の面影はありません。天気がコロコロ変わって船が出なかったり、「トランク」を撮りながら行けなかったり。一回行ったんですね。3月に一回行ったんです。

昨年の秋に74センチの真鯛を釣った記録は破られたんですか?

その記録を破る「8号」を狙って行ったのが3月だったんですけど、釣れなかったんです。隣の人が釣ったんですよ、90センチ、横から見たんですけど、あっ、僕のものなのに、僕が釣れなかった。

残念でしたね。

いやあ、釣れる日は多いし、記録は破れってことなんだから。僕が今、1メートル級を釣ったと思えば、その記録は今後数年間は破られにくいんですよ。でもまだ余裕があるじゃないですか、僕は、急いで上がると面白くないから、ゆっくりゆっくり。

自分の記録的なその真鯛は放っておいたんですよ。「次の作品をうまくやれよ」と言いながら。

それが「トランク」ですよ、時期的に。

下半期公開予定なので、真鯛が願いを叶えてくれるかどうかは後日わかりますね。

わからないよね。言ったはいいけど、盲信するわけでもないし。ただ、気持ちいいじゃないですか。もう捕まらないで元気で生きろよ、みたいな、大きい子は年をとった感じがするんですよ。うろこもところどころ剥がれてるし、目を見ていると、ちょっと気持ち悪いんですよ。あの広くて深い海を何十年くらい歩き回ったんでしょうね。僕より人生経験が多いかもしれない。そして、「トランク」をやるって決める前だったんでしょうね。作品が決まってたから言ったわけじゃないんですけど、タイミング的に「トランク」になったんです。

よくわからないんですけど、では、新作の準備をしていた昨年の夏から今年の冬までの時間は、暑かったんですか、寒かったんですか?

僕がちょうどその頃、「言い訳で」で最近の演技が楽しいと話してたので、ちょうどその頃の自分の温度がちょうど良かったと思います。そんなに暑くもなく、寒くもなく、キャラクターに関係なく、その作品を撮るとき、自分自身が安定していて余裕を持ってたように思います。現場の雰囲気とか、久しぶりの作品に臨む自分の心構えが熱いというよりは、ちょうど自分の好きな適度な温度で仕事をしてた感じだったので、簡単に言うと、リラックスしてたような感じ。ちょっと抽象的ですが。

抽象的ではありますが、温度が適正だったという表現がいいですね。

なぜなら、僕はそんなに熱い人も、そんなに冷たい人もいないような気がして… 僕は熱すぎるのはあまり好きじゃないと思うんです。自分自身でコントロールできる適度なバランスを常に保ちたい人だと思うんです。生きていると、誰かから、何かからあまり揺さぶられたくない人だと思うんです。年齢を重ねるにつれて、ますます適切な妥協は必要だけど、その中で、ただ自分の世界で他人に迷惑をかけない、受けない、堅実でいたいという気持ちがあるんですけど、ある意味、そんなにオープンじゃない人の話にもなるんですけど、適度な水位があるような気がします。数値で表せないけど、「このとき自分が安定感を感じるんだな、このとき自分が落ち着くんだな」という程度を本能的に感じて、その中に留まるようにしてます。そういう意味では、そのときがちょうどいい瞬間に留まる感じだったのかなと。だから、例えば撮影が物理的な時間的に余裕があったという話ではないんです。

心の余裕があったということですね。

そう、ただ自分の心構えそのものが。

今のコン・ユを客観的に見るとどうですか?自分自身、私はこういう人、こういう環境で居心地がいい、こういう具体性がすでに感じられますね。

僕ももう歳も歳ですからね。いろいろな経験を経て、自分がどういう人間なのか、以前より少し説明できるようになったような気がしますね。僕は世の中に百パーセントはないと思うので、まだまだ自分を知る過程にあるとは思いますが、以前より自分の声に耳を傾けるようになった気がします。

自然なことなんですか、それとも何かきっかけがあったんですか?自分を深く考えること。

例えば、幸せじゃなかったというよりは、幸せを知らなかったんだと思います。感じられなかったんです、幸せを。幸せを感じる余裕がなかったんです。

例えば、29歳の「コーヒープリンス1号店」と39歳の「トッケビ」の時?

そうですね。いわゆる他人から見て一番幸せだったその時期に、本人はその幸せを十分に楽しめなかった状況だったと、「どうしてそうなったんだろう」、自分でもよく考えるんです。今もまだ、自分なりの推論や分析を並べても明確な答えは出せないのですが、あれこれ考えてみると、先ほどの話とつながりますね。つまり、自分が自分の心の声に耳を傾けられず、自発的というよりは他意によって気づいたことの方が多かったかもしれないし、そして普通、僕たちの世界では結果がより重要だと言えますよね。でも、僕は絶対にプロセスが大事な人なんですよ。自分自身の承認や達成感も大事なんです。だから、作品が終わったら、明らかに自分に必要な時間があると思うんです。何かを整理する時間が。でも、その時間が取れないまま多くの人の前に出ると、それをずっと先延ばしにしてしまうんです。別に自分の内面を全部出す必要はないから。そして、彼らが今、かなり励まされてるときに、彼らの気分を壊したくないから。僕の中には、何か責任を果たさなきゃいけないという義務感みたいなものがあるんだと思うんです。それが繰り返されるうちに、当時は気づかなかったんですけど、バーンアウトが来たんです。後から気づいたんですけど、「トッケビ」を終えたときも、僕はバーンアウトが来たんです。感情的にも肉体的にも。今はもうちょっとコン・ユを投げ出して、あるいはそのキャラクターを投げ出して出たいんですけど、とにかく作品がうまくいくと、そこから派生するいろんなことがやってくるので。すごく幸せなことなのに、そこからくるズレがあったんだと思います。

4年前の「GQ」のインタビューで、「トッケビ」の後に「柔軟だ」という表現をたくさん使っていたので、キャラクターが俳優につけた痕跡なのかなと思ったのですが、その痕跡だけではないようですね。

僕もすごく好きな表現なんですけど、演技というのはそういうものだと思うんです。キャラクターが俳優に埋もれて、僕がまたキャラクターに埋もれて、お互いに埋もれていく、つまり、コン・ユがやる役と別の俳優がやる役は違うでしょうね。違うものを埋もれていくから。その時、「艶やかな」という言葉と同時にたくさん使った言葉が「儚さ」でした。キム・シンに対して一言で言えば儚さだったんです。キム・シンから1年近くという時間の間、そのキャラクターが僕に埋もれていったでしょうね。明らかに影響があるんです。でも、「トッケビ」は少し増えたと思います。

どんだけよく考えて、どんだけ話したら、こんなに清算の流れで出てくるんだろうって思うんですけど。

でも、この話をこうして話す場がないんですよ。たまに知人の前で酒を飲みながら言う話で、実は。

ジレンマというべきか、「コーヒープリンス1号店」と「トッケビ」の話はやめようと思ったんです。とても良い作品なんですけど、その後もコン・ユは新しいキャラクターに埋もれてきたのに、またチェ・ハンギョルとキムシンを持ち出すのは失礼かと思って。

いや、いいんです。

バーンアウトは大丈夫ですか?

結局は無条件に時間が必要なんですよね。一度何回か経験して、「自分は今ちょっと不健康なのかな」と自分で考えるようになればいいんです。僕が自分自身で知ろうとしたのも、自分の状態を客観化する必要があったからです。だから絶えず問いかける時間を持つしかなかったし。そして、肉体的に疲れたら精神的にも疲れるんです。そうすると、今の肉体的な疲れを早く回復させよう、具体的には自分の体を運動させ続けたり、家で半身浴をしながら窓から緑を見続けたり、自分が知ってる知識を総動員して頑張ったと思います。ひとつふたつ、とにかくやってみる。釣りも役に立ちましたね。

釣りはその頃から始めた趣味なんですね。

釣りもいいけど、船に乗って大海原に出るのもいいし。そういうのが人をシンプルに、その瞬間は自分をシンプルにしてくれるから。

客観的な観察を尋ねたのは、コン・ユさんが印象深く読んだという、85の精神科医イ・ギュンフ先生のインタビューの質問の中から拝借しました。「幸せは蜃気楼、小さな喜びで悲しみを覆い隠して生きる」というタイトルのインタビューですね。どんなところが良かったですか?

あっ、そうなんです。幸せは蜃気楼に過ぎないという言葉が良かったです。その言葉、周りの人にすごくよく言うんですよ。実際に僕がそうなんです。僕は、「ああ、幸せだ、最高だ」みたいなことをよく言う人が羨ましいですけど、コーヒーを飲みながら「ああ、幸せだ、美味しい」っていうマインドが自分を本当に幸せにしてくれると思うんですけど、僕はそれがうまくできないんです。「幸せだ」「嬉しい」「素敵だろう」「美しすぎるだろ」みたいなことをうまく吐き出せないんです。

感じはするけど、表現ができないってこと?

表現もあまりしないし、ちょっと無頓着なんです。だから、良いことにはそんなに敏感じゃないけど、悪いことにはすごく敏感なんです。元々ちょっとネガティブな人なんですけど、小さなことに幸せを感じない人じゃないんですけど、ただ… ただ… ただ… 「なんだそりゃあ」みたいな隣にハッピーウイルスのような人がいると、一気に幸せになれるじゃないですか。でも、僕はあまり影響を受けないんですよ。淡々としてるんです。

でも、そうは言っても、イ・グンフ先生はそういう小さな幸せを感じろと言っているじゃないですか。

そうですね、そうですね。(笑) でも、そういうことなんですよね。人は幸福に大きな意味を持たせすぎてます。僕はそう思いました。だから、「幸福は蜃気楼に過ぎない」という表現が良かったんです。僕が思うのは、幸福に執着する必要はないということです。幸せでなければならない、みたいな。幸せにならなきゃいけないの?なんでみんな幸せになろうとするの?ただ無難なのが幸せかもしれないでしょう。自分の人生に大したことがないのも幸せかもしれないじゃないですか。幸せに対する何らかの強迫観念がない人って言ったほうが正しいと思うんですよ。別にまあ… だからちょっと受け止めるほうなんですよ。そうなんでしょうね、まあ。しょうがないよね、まあ。こういうことの方が多いんですよ。

私はそのインタビューから何を得たかというと、「(年齢を重ねるにつれて)成長期に学習した教養や習慣は細胞がバラバラになるように揮発していきます。残るのは親からもらったDNAと気質、幼少期の家庭教育だけです。だから三つ子の魂百までという言葉があるのです」、コン・ユさんも、時間が経つにつれて、自分自身についてだんだんはっきりしてくるような気がするとおっしゃっていました。結局、この話に通じるような気がします。断片が揮発して残るコア、自分を支えてくれるコアは何だと思いますか?

僕、まだそんなに自分のことを全部知っているわけじゃないし、また変わるかもしれないし、昔に比べたら今は安定圏なんだけど、例えば50歳になったら急に激変するかもしれないと思うんです。油断してるとダメなんですよね。未完成なので。結局それが死ぬまで続く悩みだと思うんです。それでもそのコアを話すと、誰にもわからないけど、本当に自分だけの話で言うと、あまり目立たないけど、すごく少しずつ少しずつ、僕は自分のやりたいことをやってるんです。

バレバレです。

バレバレですか?

とても世俗的な例ですが、コン・ユという俳優は、クレジットに自分の名前が最初の再構築であろうとなかろうと関係ないように見えます。

どうでもいいんですよ、それ自体が僕には関係ないことなんです。

だから、それが基準じゃないんです。

タイトルロールであろうとなかろうと、人にウケる可能性のあるスペックの作品であろうとなかろうと、自分が見て、自分がインスピレーションを得て、自分が面白かったらやるだけ。そうですね。それが以前より少しだけ迷うことなくできるようになりましたね。以前は「これはちょっと危ういな、みんなにウケるかな」みたいなことを少しは考えてたけど、今はあまりしないようになりました。ただ自分が面白ければいいんです。傲慢に聞こえるかもしれないけど、「こうすれば大衆にウケるだろう」と自分が計算するのも傲慢かもしれないじゃないですか。だから、そういうことを考えずに、自分が心から面白くできること、自分が楽しく遊べることにもっとフォーカスしているような気がするんですよ。最近、知り合いとお酒を飲みながらよく話したのが、どこかに僕たちは流れていくんだけど、若い頃は自分がどこへ流れていくのか、「変なところに流れたらどうしよう?」っていう老婆心もあったけど、昔に比べたら、少し心配が減った気がします。そう、どこかに流れていくんだろう、流れるだけでいいんだ、川でも海でも、どこかに流れていれば、こうして浮いてることをそんなに不安に思わない気がする、どこかに流れるんだろう、それがどこであろうと。ただ、流れることが大事なんです。

今、コン・ユの顔を描いてみたら?

(目を閉じて両手で顔を触りながら) ちょっと厄介だけど、手が大きいのか顔が小さいのかわからないけど、小さいのに何か攻撃的なんです。以前と比べるとゴツゴツしていて、入り込んだり飛び出したりする感度が違うんです。ジューシーで、顔の筋肉を長年たくさん使ってきたせいか、もう少し骨というか筋肉が… 良く言えば立体感なんですけど、入るところと出るところが多くなった感じです。アイホールも深くなって、くぼんできたということですね。(笑) でこぼこして、もっと多様になった感じ?昔より。

好きですか?

いやまあ、別に何も思わないです。歳をとってるんだなあ。まあ、そんなに好きとか嫌いとかはないです。

歳を重ねることが顔によく染み込めばいいな、って言ってたのを思い出しました。

こういう画報撮影をしながらモニターを見るじゃないですか。その時に毎回感じるんですよ。あれ?去年より老けたな。(笑) 作品を撮った後、後日レコーディングして1年後に自分の顔を見るんですよ。1年前の現場では「あ~あ、老けたなあ」と思うのに、1年後に見ると「あの時は若かったなあ」の繰り返しです。ぐるぐる回るように。それで僕が得た結論は、今が一番若い、今が一番若くて、今現在が大事。過ぎ去ったことにとらわれることなく。

結局は流れに身を任せるしかないのです。

そうですね。そうなるんですよ。生きてると、今が一番大事なんですよ。さっきの話で、僕は今を楽しめなかったのかもしれないんですけど、僕はいつも習慣的に次のことを考えてたんです。さて、僕はもう自分の宿題をやり遂げたし、自分の役目を果たしたから、次のことを考えないといけない。そして、次のことを考えただけ、自分のバーンアウトを考えずに、自分の傷や自分の状態をケアせず、みんなが一緒に喜ぶときに、その幸せを一緒に感じられず、自分を捨てて、みんなと一緒に笑って騒いで、「ありがとうございます。楽しいです。皆さん、ありがとうございます!」、楽しんだらよかったのに、習慣的に次のことを考えてしまったんです。僕はいつも、いつもそうだったんだと思います。だから、余計なことをして、全部ぶち壊されて、こう……

落ちぶれた感じ?

落ちぶれた感じ。「トッケビ」が終わって、まさにそんな感じでした。自分の器がこれしかないのに、自分が抱えすぎたものを抱え続けようとしすぎて破裂したんだな、流すべきなのに。

その時のコン・ユは見てないけど、今目の前にいる人は本当にちょっと落ち着いてるように見えるんですよ。

こうやって話をしているんだから、落ち着いてるってことですよ。「トッケビ」の話が出てきたけど、「トランク」の時も、実は幽霊のような人物だったんですよ、また。

そうですか、何に惹かれて今回「トランク」を選んだのか、やっぱり気になりました。

僕が「トランク」で演じたハン・ジョンウォンという役は、夜も眠れないし、いつも悪夢に悩まされて苦しんでいる人物なんです。だから、ある意味、また、潔癖症とも言えるし、不健康な人なんですけど、そのハン・ジョンウォンを救ってあげたかったんです。大きな思いやりを感じました。キャラクターに思いやりを感じると、そのキャラクターに惹かれるんですよ、僕は。だから、ジョンウォンを救ってあげたいと思ったんです。どうせ僕がジョンウォンに埋もれてジョンウォンになるはずなのに、僕を埋めてジョンウォンを救ってあげたい気持ち?

思いやりに惹かれたんですね。

そうですね。ジョンウォンがかわいそうで、ジョンウォンを自分の城から出してあげたいという気持ちがありました。

その思いやりはどこから来たんでしょうね。

僕が、僕が経験したから余計にそうなったんだと思います。意地になってしまったんです。そういう意味では、ジョンウォンが病気にならないでほしい、ジョンウォンが元気になってほしい、そういう思いで見ていたんだと思います。もちろん、内容は作家さんがすでに書いてくれていて、結末は決まってるんですけど、今の僕のこういう思いがジョンウォンに届くことで、ジョンウォンが救われることに一役買ってるのかなと思いました。初めに監督さん、作家さん、ヒョンジンさんともそういう話をしました。もしかしたら、お互いがお互いを救ってくれる話かもしれないんじゃないか?

原作のキム・リョリョン作家がこの作品を書いて、そんな話をしたことがあるんです。人生を長い旅だと考えたとき、私たちはトランクをよく詰めるべきだと思うけれど、実はトランクは捨ててもいいんじゃないかと、リュックサック1つでいいじゃないかと。

かっこいい。僕は今の自分のペースでいいんですよ。一時期は、熱くならないといけないのか?自分がぬるいのか?みんなが熱いものを欲しがってるから僕もちょっと熱くならないといけないのか?と思ってたんですけど、そこから少し楽になったような気がします。そんなことを考えなくなったのを見ると。ただ、これでいいんだけど、どうしよう、人にいちいち「僕はこんな人です」って言う必要はないみたいだし、たまに申し訳ないくらい僕が持ってる以上のものを持ってる人として見られているのがありがたかったり、負担になったりするので、常により良い人になろうと努力してるのも事実です。そうなんですけど、僕は今の自分のペースがいいし、今の自分の温度がいいので、自分の好きなように行けばいいんだと思います。自分の気持ちのままに。